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第三話 死んだ妹より、あなたのほうが冷たい

last update publish date: 2026-08-22 15:14:58

 葬儀の日の夕暮れは、妙に長かった。

 太陽はとっくに西へ傾いているはずなのに、空の端に薄い金色が残り続けている。

 まるで、一日が終わることを嫌がっているようだった。

 セレスティアは公爵家の馬車の中で、膝の上に置いた遺言状の写しを見下ろしていた。

 何度読み返しても、内容は変わらない。

 共同後見人。

 七日以内の署名。

 信託財産。

 乳母マルタの継続雇用。

 ミレイユらしいと言えば、あまりにもミレイユらしい。

 自分が死んだあとでさえ、人を振り回す。

 人の感情を勝手に見抜いた気になって、逃げ道を塞ぐ。

 けれど本当に腹立たしいのは、その読みが外れていないことだった。

 セレスティアは七日間、考えると言ってしまった。

 言わされたのではない。

 自分で言った。

 それが一番厄介だった。

 向かいの席では、ノエルが小さな鞄を両腕で抱えている。

 黒い革鞄だった。

 子供が持つには地味すぎる。

 金具は古く、角が擦り切れている。おそらくミレイユのものではなく、誰か大人のお下がりだろう。

 隣に座る乳母マルタは、ずっと無言だった。

 四十代半ばほどの女で、髪はきつく結い上げ、喪服の襟元まで隙なく整えている。痩せてはいるが、弱々しくはない。むしろ、骨ばった指には妙な力があった。

 馬車が揺れるたび、ノエルの肩へ手を伸ばす。

 労わるためではない。

 位置を直すような触れ方だ。

「ノエル様。背筋を」

「はい」

 ノエルはすぐに背を伸ばす。

「鞄を膝に置きなさい。抱えるものではありません」

「はい」

 ノエルは鞄を膝に置く。

 だが、指は金具のあたりを握ったままだった。

 セレスティアはそれを見ていた。

 マルタの視線がこちらへ向く。

「お見苦しいところをお見せしました、エルフォード様。奥様の葬儀で、少々気が緩んでいるようでございます」

 気が緩んで。

 五歳の子供に対して使う言葉だろうか。

 セレスティアは微笑まなかった。

「お母様を亡くした日に気を張っているほうが、不自然ではありませんか」

 マルタは一瞬、目を瞬かせた。

 すぐに控えめな笑みを作る。

「お優しいのですね」

「そう聞こえましたか」

「はい。ですが、子供は甘やかしすぎると、あとで本人が苦しみます」

「そうですか」

「奥様も、それはよくお分かりでした。ノエル様はお可愛らしいので、周囲が何でも許してしまいます。ですが、レイモンド家のお嬢様として、恥ずかしくない振る舞いを身につけねばなりません」

 マルタの言葉は正しい。

 多分、どこへ出しても恥ずかしくないくらい正しい。

 だからこそ、嫌だった。

 正しさは、時々、人を叩く棒になる。

 叩いている本人は、自分が善いことをしていると信じているのでなおさら厄介だ。

「レイモンド家のお嬢様として、ですか」

「はい」

「今日からは、どちらのお家のお嬢様になるのでしょうね」

 マルタの笑みが固まった。

 ノエルの指が鞄の金具を強く握る。

 失敗した。

 セレスティアはすぐに気づいた。

 マルタへ向けた棘が、ノエルにも刺さった。

「今のは、言い方が悪かったわ」

 セレスティアはノエルへ言った。

「あなたの居場所を軽く扱うつもりはありませんでした」

 ノエルは顔を上げる。

「怒っていません」

「怒っていいのよ」

「怒ると、面倒くさい子になります」

 マルタが小さく息を呑んだ。

 セレスティアは彼女を見なかった。

 見れば、責める言葉が出る。

 それは今ではない。

「面倒くさい子でも、お腹は空きます」

「はい?」

「怒っても、泣いても、面倒くさくても、夕食は食べます。そこは変わりません」

 ノエルは意味が分からないという顔をした。

「怒ったら、ご飯がなくなるの?」

「なくなりません」

「本当に?」

「少なくとも、私の前では」

「セレスティアさまがいないところでは?」

 子供は鋭い。

 逃げ道を残さない質問をする。

「そこは、これから確かめます」

「確かめる?」

「ええ。あなたが食事を抜かれていないか。寒い部屋で眠らされていないか。痛い思いをしていないか。そういうことは、大人が確かめるべきです」

 マルタが静かに言った。

「まるで、私どもがノエル様を虐げていたようなお言葉です」

 ようやく出た。

 セレスティアは窓の外へ視線を向けた。

 公爵邸へ続く大通りには、葬儀帰りの馬車がいくつも並んでいる。窓の向こうに、こちらを覗く顔がちらほら見えた。

「虐げていたと決めつけたつもりはありません」

「では、疑っていらっしゃる」

「疑っています」

 マルタは口を閉じた。

 ノエルが不安そうに二人を見比べる。

 またやってしまった。

 しかし、今度は取り消さなかった。

「乳母殿」

 セレスティアは言った。

「あなたを信用するために、まず疑わせてください」

「失礼ではございませんか」

「失礼です。ですが、五歳の子供の生活を預かる相手を、初対面で信用するほうが私は怖い」

「奥様は私を信頼してくださいました」

「亡くなった方の信頼を、今ここで証明することはできません」

 マルタの目が、ほんの一瞬だけ冷たくなった。

「お噂通りの方なのですね」

「どの噂でしょう」

「人の心を測れない、冷たい方だと」

 ノエルが小さく身じろぎした。

 セレスティアは苦笑しそうになった。

 今日だけで、何度目だろう。

 冷たい。

 心がない。

 泣かない。

 まるで、葬儀とは死者を悼む場ではなく、生者が望み通りに悲しんでいるかを採点される場らしい。

「その噂が本当なら、ノエルにとっては都合がよいかもしれません」

「どういう意味でございますか」

「冷たい人間は、泣き落としに弱くありません。可哀想だからという理由だけで、判断を誤ることも少ない」

「子供には温かさが必要です」

「温かいだけの部屋では、腐るものもあります」

 マルタの顔が強張る。

 さすがに言いすぎた。

 でも、謝らなかった。

 セレスティアは自分でも面倒な女だと思う。

 言葉が刃物になっていると分かっていながら、引っ込められないときがある。

 そして、あとでひとりになってから、その刃を自分の胸に向ける。

 馬車が大きな門をくぐった。

 ヴァルクール公爵家本邸。

 王都でも屈指の大邸宅である。

 広大な敷地の中に、灰色の石造りの屋敷がそびえていた。夕暮れの空を背負ったその姿は、城というより、よく磨かれた墓標のように見えた。

 美しい。

 だが、住みたいかと聞かれれば迷う。

 ノエルは窓へ顔を向けた。

 大きな門。

 広い庭。

 整えられた並木。

 それらを見ても、子供らしく目を輝かせることはなかった。

 新しい居場所を喜ぶより先に、ここで何をしてはいけないかを探している顔だった。

 馬車が玄関前で停まる。

 扉が開き、リュシアンが先に降りて待っていた。

 彼は別の馬車で、葬儀関係の手配を済ませて戻ってきたらしい。

「遅かったな」

「道が混んでいました」

 セレスティアが降りると、リュシアンはノエルへ手を伸ばした。

「降りられるか」

「はい」

 ノエルは手を借りずに降りようとした。

 だが、鞄を抱えたせいで足元が危ない。

 リュシアンが咄嗟にその体を支えた。

「鞄を貸しなさい」

「大丈夫です」

「落ちる」

「落としません」

「貸せ」

「嫌です」

 初めて、はっきりした拒絶だった。

 リュシアンの手が止まる。

 ノエル自身も、自分が強く言いすぎたことに気づいたらしい。顔が白くなり、慌てて鞄を差し出した。

「ごめんなさい。どうぞ」

 その素早さが痛々しかった。

 リュシアンは差し出された鞄を受け取らなかった。

「嫌なら、持っていていい」

「でも」

「持っていたいのだろう」

 ノエルは小さく頷いた。

「なら、持っていなさい」

「怒らないの?」

「怒っていない」

「顔が怖いです」

 リュシアンは固まった。

 玄関前に並んでいた使用人たちが、一斉に視線を伏せる。

 笑った者はいない。

 だが、空気が少しだけ揺れた。

「これは元からだ」

 リュシアンが言う。

 ノエルは真剣に彼の顔を見つめた。

「かわいそう」

「誰が」

「伯父さまが」

 セレスティアは思わず横を向いた。

 笑ってはいけない。

 葬儀の日である。

 しかも、つい先ほどまで深刻な話をしていた。

 それでも、リュシアンの表情があまりにも難しかった。

「セレスティア」

「笑っておりません」

「今、肩が動いた」

「寒かったのです」

「今日は暖かい」

「心が冷たいので」

「自分で言うな」

 ノエルが目を丸くしている。

 マルタは不快そうだった。

 使用人たちは、いよいよ顔を上げられなくなっている。

 リュシアンは咳払いをした。

「中へ」

 玄関広間に入ると、空気が変わった。

 磨かれた大理石の床。

 高い天井。

 壁には歴代公爵の肖像画。

 どれも重々しく、立派で、子供の足音を吸い込んでしまいそうだった。

 ノエルは鞄を抱え直す。

 セレスティアはそれを見た。

 リュシアンも見た。

 だが、今度は何も言わなかった。

「ノエルの部屋は」

 セレスティアが尋ねる。

「東棟の客室を用意した」

 リュシアンが答える。

「客室?」

「急だったのでな。子供部屋として整えるには時間が足りない」

「東棟は、どなたの部屋に近いのですか」

「空き部屋が多い」

「つまり、誰の部屋からも遠い」

「静かだ」

「五歳の子供に必要なのは、静けさより人の気配では?」

 リュシアンの眉間に皺が寄る。

「乳母も隣室に置く」

「乳母殿にすべて任せるおつもりですか」

「任せるとは言っていない」

「では、夜中にノエルが起きたとき、閣下は東棟まで走っていらっしゃる?」

「必要なら」

「その必要に気づければ、ですね」

 リュシアンは黙った。

 マルタが控えめに頭を下げる。

「恐れながら、ノエル様は夜泣きなどなさいません。静かにお休みになります」

「乳母殿」

 セレスティアは彼女を見た。

「夜中に泣かない子供と、夜中に泣けない子供は違います」

「奥様のご教育が行き届いているのです」

「母親の葬儀の日にも泣けない教育なら、行き届きすぎています」

「セレスティア」

 リュシアンの声が低くなる。

 今度は本当に怒っている。

「言葉を選べ」

「選んでおります」

「それでか」

「選ばなければ、もっと酷いことを言っています」

「自慢にならない」

「承知しております」

 ノエルが二人の間で、小さく息を吐いた。

「お部屋は、どこでも大丈夫です」

 まただ。

 大丈夫。

 どこでも。

 何でも。

 セレスティアはその言葉が、だんだん嫌いになっていくのを感じた。

「ノエル」

「はい」

「本当にどこでもいいの?」

「はい」

「広すぎる部屋は怖くない?」

「怖くありません」

「暗い廊下は?」

「平気です」

「知らない人ばかりでも?」

「大丈夫です」

「お母様と最後に暮らしていた部屋には、窓がいくつありましたか」

 唐突な質問に、ノエルは瞬きをした。

「二つ」

「そのうち一つは閉めにくかった?」

「はい」

「夜になると、お母様が何度も確かめていた?」

「……はい」

「あなたは、窓が見える場所で眠りたい? それとも見えない場所がいい?」

 ノエルは黙った。

 初めて、答えを探している顔をした。

 大人が望む正解ではなく、自分の中にある答えを探している。

「見えないところがいい」

 小さな声だった。

「でも、朝になったら、開いているか見たい」

「分かったわ」

 セレスティアはリュシアンへ向き直る。

「部屋を見せてください」

「今からか」

「今からです。夜になってからでは遅いでしょう」

「君は客人だ」

「七日間の共同後見候補です」

「候補だろう」

「候補だからこそ、見ます」

 リュシアンは苛立たしげに息を吐いた。

 けれど反論はしなかった。

 使用人へ目配せする。

 年配の家令が一歩進み出た。

「ご案内いたします」

 東棟の客室は、確かに美しかった。

 淡い緑の壁紙。

 天蓋付きの寝台。

 柔らかな絨毯。

 窓は庭に面していて、外からの見通しも悪くない。

 大人の客を泊めるには申し分ない部屋だった。

 だが、子供が眠るには広すぎた。

 寝台の上に座れば、天井が遠い。

 夜になれば、家具の影も大きく伸びるだろう。

 ノエルは部屋へ入るなり、窓の数を確かめた。

 二つ。

 そのうち一つに近づき、鍵に触れようとして、すぐに手を引っ込めた。

「触ってもいいわ」

 セレスティアが言う。

「壊したら困ります」

「壊れたら直せばいい」

「高そうです」

「公爵閣下が払います」

 リュシアンがこちらを見る。

「なぜ私を見る」

「この屋敷の窓でしょう」

「当然だ」

「なら、所有者が直します」

 ノエルはおずおずと鍵に触れた。

 何度か動かす。

 硬い。

 子供の力では閉めにくいだろう。

 リュシアンが家令を見る。

「今夜中に直せ」

「かしこまりました」

「今夜中ではなく、今すぐお願いします」

 セレスティアが言う。

 リュシアンの眉が動く。

「同じだ」

「違います。夜になってから職人が部屋へ出入りすれば、この子は落ち着きません」

 家令がセレスティアへ一礼した。

「すぐに手配いたします」

 リュシアンが複雑な顔をした。

 自分の屋敷の使用人が、セレスティアの指示にも素直に従ったのが面白くないらしい。

 子供ではないのだから顔に出さなければよいのに、と思ったが、たぶん自分も似たようなものだ。

「寝台の位置を変えましょう」

 セレスティアは部屋を見回した。

「窓が直接見えない角度へ。けれど、起き上がれば確認できるように」

「そんな細かいことまで必要か」

 リュシアンが言う。

 ノエルがすぐに口を開いた。

「大丈夫です。このままで――」

「必要です」

 セレスティアはノエルの言葉にかぶせるように言った。

 少女が驚いてこちらを見る。

「あなたが我慢できるかどうかではなく、眠りやすいかどうかの話です」

「わがままではありませんか」

「違います」

「でも、お部屋を変えるのは大変です」

「大変なのは、大人の仕事です」

 ノエルは黙った。

 その目が少し潤んで見えた。

 泣くのかと思った。

 だが、泣かなかった。

 代わりに、鞄を抱きしめる。

「その鞄には、何が入っているの?」

 セレスティアが尋ねると、マルタが一歩前へ出た。

「私物でございます。着替えと、奥様の形見を少々」

「確認しても?」

「必要ございません。私が支度いたしましたので」

「では、なおさら確認します」

 マルタの顔色が変わった。

「エルフォード様。子供にも、見られたくないものはございます」

「ええ。だから、ノエルに聞いています」

 セレスティアはしゃがんだ。

「ノエル。鞄を開けてもいい?」

 少女はすぐに答えなかった。

 指で金具をなぞる。

「見たら、捨てますか」

「捨ててほしくないものが入っているの?」

 頷きはしない。

 だが、沈黙が答えだった。

「勝手には捨てません」

「絶対?」

「危ないものでなければ」

「危ないものはありません」

「それなら、あなたと一緒に確認します。嫌なら、今日はやめてもいい」

 ノエルはマルタを見た。

 マルタは微笑んでいる。

 優しそうな顔だった。

 だが、その微笑みを見た瞬間、ノエルは鞄をさらに強く抱えた。

「今、見ます」

 ノエルは床に膝をつき、鞄を置いた。

 金具を外す手が震えている。

 リュシアンが手伝おうとしたが、セレスティアは目で止めた。

 これは、ノエル自身に開けさせたほうがいい。

 鞄の中には、子供用の着替えが二組。

 薄い寝間着。

 古びた櫛。

 小さな布兎。

 白いリボン。

 そして、硬くなったパンが布に包まれて入っていた。

 リュシアンの顔が変わる。

「これは何だ」

 ノエルの肩が跳ねた。

「ごめんなさい」

「なぜ謝る」

「盗りました」

「どこから」

「朝の食事のところから」

 マルタが素早く言った。

「ノエル様、それは私が後ほど処分するつもりで――」

「マルタ」

 リュシアンの声は静かだった。

 静かすぎて、逆に怖かった。

「黙れ」

 マルタが息を呑む。

 リュシアンはノエルへ向き直る。

「なぜパンを入れた」

「お腹が空いたときに」

「食事は出す」

「出ない日もあります」

 部屋の空気が凍った。

 セレスティアはマルタを見た。

 マルタの顔は白い。

 しかし、その白さは恐怖だけではなかった。

 怒りもある。

 恥をかかされた怒り。

「ノエル様」

 マルタが低く言った。

「そのような言い方をしては、皆様が誤解なさいます」

「誤解なのか」

 リュシアンが問う。

「はい。食事を出さないなど、とんでもございません。ただ、ノエル様は食が細く、召し上がらないことがありました。奥様も、無理に食べさせるなと」

「食べなかったものを、あとで食べようと隠したのではないのか」

 セレスティアが言う。

 マルタは唇を引き結んだ。

「子供のすることです」

「子供がするには理由があります」

「何でも理由をつければ、しつけが成り立ちません」

「しつけと、空腹を怖がらせることは違います」

「私はノエル様をお育てしてきました」

「では、なぜこの子はパンを隠すのですか」

 マルタが黙った。

 ノエルが震え始めている。

 自分のせいで大人が争っていると思っている。

 まただ。

 セレスティアは深く息を吸った。

「ノエル」

「はい」

「このパンは、捨てません」

「でも、硬いです」

「硬いパンは、スープに入れれば食べられます」

「食べるの?」

「あなたが食べたいなら」

 ノエルは目を丸くした。

「怒らない?」

「怒るとすれば、パンを隠さなければならないと思わせた大人にです」

 リュシアンがマルタを見た。

 マルタは膝を折った。

「申し訳ございません。私の監督不行き届きです」

 あまりにも整った謝罪だった。

 心がこもっているかどうかより、これ以上責められない形に整えられている。

 こういう謝り方をする人間は、なかなか崩れない。

 セレスティアは、乳母への警戒を一段上げた。

「今日は、ノエルと私で荷物を確認します」

「エルフォード様が?」

「ええ」

「ですが、お疲れでしょう。葬儀の後でございますし」

「あなたもお疲れでしょう。休んでください」

 マルタは一瞬、返事をしなかった。

 リュシアンが言う。

「聞こえなかったか。下がれ」

「……かしこまりました」

 マルタは一礼し、部屋を出ていく。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 ノエルは鞄の前で固まっていた。

「マルタは、怒る?」

「今は怒らせない」

 リュシアンが即答した。

 ノエルは不安そうに言う。

「伯父さまは帰ったあとも、ここにいますか」

「ここは私の屋敷だ」

「ずっと?」

「……なるべく」

 なるべく。

 正直だが、子供には不安な言葉だった。

 セレスティアはリュシアンを見た。

「閣下」

「何だ」

「今夜は、この部屋の近くにいてください」

「当然だ」

「当然だと思うなら、最初から東棟の奥の客室を選ばないでください」

「先ほどから君は、いちいち一言多い」

「閣下は、一言足りません」

「君と足して割ればちょうどいいとでも?」

「割られるのは御免です」

「私もだ」

 ノエルがじっと二人を見ている。

 その表情は、さっきより少しだけ緊張がほどけていた。

 喧嘩に見えるが、自分をどちらが引き取るかで揉めているわけではない。

 そう分かり始めたのかもしれない。

 鞄の中身を並べていく。

 布兎は耳が片方ほつれていた。

 リュシアンがそれを見て言う。

「新しいものを買う」

「いりません」

 ノエルがすぐに言った。

 また慌てて付け加える。

「ごめんなさい」

「謝るな」

 リュシアンは少し考え、

「……では、直させる」

 と言った。

「直してもいいか」

 ノエルは布兎を撫でた。

「お母さまが、昔、縫ってくれました」

 リュシアンの顔が僅かに歪む。

「妹が?」

「はい。あまり上手じゃないけど、わたしに似ているって」

 確かに、耳の位置も目の高さも少しずれている。

 ミレイユは刺繍が苦手だった。

 十二歳の頃、淑女教育の時間に針で指を刺し、セレスティアの布に血をつけて大騒ぎした。

『ティア、お願い。代わりに縫って。先生に叱られるわ』

『自分でなさい』

『親友でしょう?』

『親友は替え玉ではありません』

『冷たい!』

 あの声を思い出して、胸が痛くなる。

 冷たい。

 昔から、そう言われていた。

 ミレイユは笑いながら言っていた。

 その笑い方まで、思い出せてしまう。

「セレスティア?」

 リュシアンに呼ばれ、我に返った。

「何でもありません」

「顔色が悪い」

「葬儀のあとですので」

「無理をするな」

「閣下に心配されると、明日は雪が降りそうです」

「君は心配されても嫌味を返さなければ気が済まないのか」

「慣れておりませんので」

「何に」

「心配されることに」

 言ってから、しまったと思った。

 リュシアンが黙る。

 ノエルがこちらを見上げる。

 余計なことを言った。

 こういう小さな本音は、場を難しくする。

 セレスティアは咳払いをして、鞄の底へ手を伸ばした。

 そのとき、指先に硬いものが触れた。

 鞄の底板。

 いや、違う。

 布の下に、何かが縫い込まれている。

「ノエル」

「はい」

「この鞄は、誰が用意したの?」

「お母さまです」

「いつ?」

「分かりません。でも、お母さまが、何かあったらこれを持って逃げなさいって」

 逃げなさい。

 リュシアンの表情が変わった。

「誰から逃げると」

「お父さまのお友達」

「名前は?」

「知らない」

 また、その男だ。

 セレスティアは鞄の底を調べた。

 縫い目が一部だけ粗い。

 ミレイユの手だ。

 下手な針目。

 昔と変わらない。

「鋏を」

 リュシアンがすぐに使用人を呼ぼうとする。

「待って」

 セレスティアは止めた。

「ノエル。この縫い目をほどいてもいい?」

「お母さまが縫ったところ?」

「ええ」

「ほどいたら、戻せますか」

「戻せます」

「セレスティアさまが?」

「私は縫い物が苦手ではありません」

「お母さまは下手でした」

「知っています」

 ノエルが少しだけ目を丸くする。

「知っているの?」

「昔から下手でした」

「お母さま、自分は上手だって言っていました」

「嘘です」

「やっぱり」

 ノエルが小さく笑った。

 その笑顔は、ミレイユと似ていなかった。

 ノエル自身のものだった。

 セレスティアは胸の奥が少しだけ緩むのを感じながら、縫い目をほどいた。

 底板の下から出てきたのは、薄い油紙に包まれた小さな鍵と、封筒だった。

 封筒は古い。

 表には、見慣れた字で名前が書かれている。

 セレスティアへ。

 ただ、それだけ。

 リュシアンが息を止めた。

 ノエルは首を傾げる。

「お母さまの字?」

「ええ」

 セレスティアの指が震えた。

 六年間、開けなかった手紙。

 捨てた手紙。

 燃やした手紙。

 返した手紙。

 その一つが、今度は死んだ親友の娘の鞄から出てきた。

 逃げられない形で。

「読むのか」

 リュシアンが聞く。

 声は責めていなかった。

 ただ、少し掠れていた。

 セレスティアは封筒を見つめる。

 読みたくない。

 読みたい。

 聞きたくない。

 知りたい。

 許したくない。

 許す理由が欲しい。

 いくつもの感情が、胸の中で押し合っていた。

「今日は読みません」

 セレスティアは答えた。

 リュシアンの眉が動く。

「また逃げるのか」

 刺さった。

 だが、今度は顔を上げた。

「ええ。今夜は逃げます」

「セレスティア」

「ただし、捨てません」

 封筒を両手で持つ。

「明日、読みます。ノエルが朝食を食べて、窓の鍵が直って、この部屋で眠れたか確かめたあとで」

「順番が違うだろう」

「違いません」

「これは妹が隠した手紙だ。事件に関わるかもしれない」

「この子が今夜眠れるかどうかも、十分に事件です」

 リュシアンは言い返そうとして、やめた。

 ノエルが布兎を抱きしめている。

 その目が眠そうに揺れていた。

 葬儀。

 遺言状。

 馬車。

 新しい屋敷。

 鞄の中身。

 五歳の体には、もう重すぎる。

「分かった」

 リュシアンは低く言った。

「明日だ」

「はい」

「だが、手紙は私の金庫へ」

「嫌です」

「なぜだ」

「あなたは今夜読みそうだからです」

「読まない」

「本当に?」

「……読まない」

 一瞬の間があった。

 セレスティアは目を細める。

「今、迷いましたね」

「迷っていない」

「嘘が下手です」

「君ほどではない」

「私は嘘をつきません」

「つく。平気だと言うときは、だいたい嘘だ」

 今度はセレスティアが黙った。

 妙なところを見ている。

 腹立たしい。

 それ以上に、少しだけ怖かった。

「では、手紙はノエルの鞄へ戻します」

「駄目だ」

「なぜ」

「危険かもしれない」

「では、封筒だけ私が持ち、鍵は閣下が保管する。それでいかがです」

「逆ではないのか」

「私が鍵を持つと、閣下は私が勝手に開けると疑うでしょう」

「君も私を疑っている」

「ええ。お互い様です」

 リュシアンはしばらく黙り、それから手を差し出した。

「鍵を」

 セレスティアは小さな鍵を渡した。

 その指が一瞬触れる。

 互いにすぐ手を引いた。

 まるで火傷でもしたようだった。

 ノエルが見ている。

「二人は、本当に仲が悪いの?」

「悪いです」

「悪い」

 また重なった。

 ノエルは布兎に顔を埋めた。

 肩が震えている。

 泣いているのかと思った。

 違った。

 笑っていた。

 音を立てないように、必死で笑っている。

 リュシアンは困惑し、セレスティアもどうしていいか分からなかった。

 それでも、止めなかった。

 笑いたいなら笑えばいい。

 葬儀の日でも。

 母親を亡くした日でも。

 大人が言い争う部屋の中でも。

 子供が笑ってはいけない理由など、本当はどこにもない。

 やがて、ノエルは眠気に勝てなくなった。

 布兎を抱えたまま、寝台へ横になる。

 天蓋の影が怖いかと聞くと、少し考えてから「少しだけ」と答えた。

 リュシアンが天蓋を外させようとしたが、セレスティアが止めた。

「今夜は、布だけ開けておきましょう。急に全部変えると、それはそれで落ち着きません」

「難しいな」

「子供は家具ではありませんから」

「また一言多い」

「癖です」

「直せ」

「検討します」

「絶対にしない言い方だな」

 そんなやり取りをしているうちに、ノエルは目を閉じた。

 眠ったかと思うと、すぐに薄く目を開ける。

「パン」

 小さな声だった。

「ここにあるわ」

 セレスティアは硬いパンを布に包み直し、寝台横の小さな台に置いた。

「捨てない?」

「捨てない」

「朝もある?」

「あります」

「お腹が空いても、怒らない?」

「怒りません」

 ノエルは安心したのか、布兎を抱く手の力を緩めた。

 今度こそ、眠った。

 部屋を出ると、廊下には静けさが広がっていた。

 リュシアンは扉の前に立ったまま、しばらく動かなかった。

「客室を選んだのは、失敗だった」

 ぽつりと言う。

 素直な反省が出てくると思っていなかったので、セレスティアは返事に困った。

「そうですね」

「そこは慰めるところではないのか」

「お望みでしたか」

「望んではいない」

「では、よかった」

 リュシアンが疲れた顔をする。

 葬儀の日の終わりに、彼もまた疲れ切っている。

 妹を失い、姪を引き取り、六年前から嫌っている女と共同後見を迫られた。

 同情する余地はある。

 ただ、それを口にするほどセレスティアは優しくなかった。

「乳母をどう見る」

 リュシアンが尋ねた。

「信用しません」

「即答だな」

「閣下は?」

「同じだ」

「では、珍しく意見が合いました」

「喜ばしいことではない」

「ええ」

 二人は廊下を歩き出した。

 窓の外はすでに暗い。

 屋敷の庭には灯りが点り、夜の花が白く浮かんでいる。

 白い花ばかりだ。

 ミレイユなら文句を言っただろう。

「妹は」

 リュシアンが不意に言った。

「赤い薔薇が好きだった」

 セレスティアは足を止めた。

「知っています」

「棺に白い花を飾ったのは、私ではない」

「そうですか」

「叔母が手配した」

「言い訳ですか」

「違う」

「では、なぜ私に?」

 リュシアンはしばらく黙った。

「私が手配していても、白を選んだかもしれない」

 思いがけない言葉だった。

「妹が何を好きだったか、忘れていた」

 セレスティアは彼を見た。

 冷徹公爵。

 氷壁。

 王宮では、そう呼ばれている男。

 その男が、廊下の薄暗がりで、自分の失敗を呟いている。

「六年は長いです」

「言い訳だな」

「はい」

 リュシアンは苦笑しなかった。

 ただ、目を伏せた。

「君は覚えていたのか」

「ええ」

「なのに、泣かなかった」

 セレスティアは息を吸った。

 責められているのかと思った。

 けれどリュシアンの声には、先ほどほどの棘がない。

 ただ分からない、という響きだった。

「覚えていることと、泣けることは違います」

「そうか」

「閣下は、泣きたいのですか」

「分からない」

「大人なのに?」

 ノエルの言葉を真似ると、リュシアンはほんの僅かに眉を上げた。

「意地が悪いな」

「知っています」

「妹よりも?」

「死んだ妹君と比べるのは、ずるいのでは?」

「確かに」

 初めて、リュシアンの口元が微かに動いた。

 笑みと呼ぶには薄い。

 けれど、氷に細いひびが入るような変化だった。

 その瞬間、セレスティアは嫌なことに気づいた。

 この男を完全に嫌い続けるのは、少し難しいかもしれない。

 それは非常に困る。

 嫌いな相手は、嫌いなままでいてくれなければ困るのだ。

 そうでなければ、自分が六年間抱えてきた怒りの置き場所がなくなってしまう。

 セレスティアは手にした封筒を見下ろした。

 ミレイユの字。

 セレスティアへ。

 明日、これを読む。

 読めば、また何かが変わる。

 変わりたくない。

 でも、もう変わらずにいることもできない。

「明日の朝」

 リュシアンが言った。

「ノエルの朝食後に読むのだったな」

「はい」

「逃げるなよ」

 セレスティアは封筒を胸元へ引き寄せた。

「閣下こそ」

「私は逃げない」

「妹君からは逃げたでしょう」

 言ってすぐ、後悔した。

 リュシアンの顔が硬くなる。

 今度は、明らかに言いすぎた。

 セレスティアは唇を開いた。

 謝るべきだ。

 そう思った。

 だが、言葉が出てくる前に、リュシアンが静かに答えた。

「ああ」

 短い肯定だった。

 それだけで、セレスティアのほうが傷ついた。

「だから、明日は逃げない」

 リュシアンはそう言い残し、廊下の向こうへ歩いていった。

 セレスティアは一人、封筒を握りしめたまま立ち尽くす。

 死んだ親友より、生きている人間のほうが面倒だ。

 怒れば怒り返す。

 傷つければ傷つく。

 そして時々、こちらが用意した悪役の場所から、勝手に降りてしまう。

 セレスティアは目を閉じた。

 明日読む。

 そう決めた。

 決めたはずなのに。

 自室として与えられた客間へ戻ってからも、封筒を机の引き出しに入れることができなかった。

 蝋燭の火が揺れている。

 窓の外から、夜風がかすかに音を立てる。

 セレスティアは椅子に座り、封筒を見つめた。

 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。

「あなたは、どこまで私を知っていたの、ミレイユ」

 封筒は答えない。

 死者はいつも黙っている。

 その沈黙が、生者を一番苦しめるのだと、セレスティアはその夜初めて知った。

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