LOGIN葬儀の日の夕暮れは、妙に長かった。
太陽はとっくに西へ傾いているはずなのに、空の端に薄い金色が残り続けている。 まるで、一日が終わることを嫌がっているようだった。 セレスティアは公爵家の馬車の中で、膝の上に置いた遺言状の写しを見下ろしていた。 何度読み返しても、内容は変わらない。 共同後見人。 七日以内の署名。 信託財産。 乳母マルタの継続雇用。 ミレイユらしいと言えば、あまりにもミレイユらしい。 自分が死んだあとでさえ、人を振り回す。 人の感情を勝手に見抜いた気になって、逃げ道を塞ぐ。 けれど本当に腹立たしいのは、その読みが外れていないことだった。 セレスティアは七日間、考えると言ってしまった。 言わされたのではない。 自分で言った。 それが一番厄介だった。 向かいの席では、ノエルが小さな鞄を両腕で抱えている。 黒い革鞄だった。 子供が持つには地味すぎる。 金具は古く、角が擦り切れている。おそらくミレイユのものではなく、誰か大人のお下がりだろう。 隣に座る乳母マルタは、ずっと無言だった。 四十代半ばほどの女で、髪はきつく結い上げ、喪服の襟元まで隙なく整えている。痩せてはいるが、弱々しくはない。むしろ、骨ばった指には妙な力があった。 馬車が揺れるたび、ノエルの肩へ手を伸ばす。 労わるためではない。 位置を直すような触れ方だ。 「ノエル様。背筋を」 「はい」 ノエルはすぐに背を伸ばす。 「鞄を膝に置きなさい。抱えるものではありません」 「はい」 ノエルは鞄を膝に置く。 だが、指は金具のあたりを握ったままだった。 セレスティアはそれを見ていた。 マルタの視線がこちらへ向く。 「お見苦しいところをお見せしました、エルフォード様。奥様の葬儀で、少々気が緩んでいるようでございます」 気が緩んで。 五歳の子供に対して使う言葉だろうか。 セレスティアは微笑まなかった。 「お母様を亡くした日に気を張っているほうが、不自然ではありませんか」 マルタは一瞬、目を瞬かせた。 すぐに控えめな笑みを作る。 「お優しいのですね」 「そう聞こえましたか」 「はい。ですが、子供は甘やかしすぎると、あとで本人が苦しみます」 「そうですか」 「奥様も、それはよくお分かりでした。ノエル様はお可愛らしいので、周囲が何でも許してしまいます。ですが、レイモンド家のお嬢様として、恥ずかしくない振る舞いを身につけねばなりません」 マルタの言葉は正しい。 多分、どこへ出しても恥ずかしくないくらい正しい。 だからこそ、嫌だった。 正しさは、時々、人を叩く棒になる。 叩いている本人は、自分が善いことをしていると信じているのでなおさら厄介だ。 「レイモンド家のお嬢様として、ですか」 「はい」 「今日からは、どちらのお家のお嬢様になるのでしょうね」 マルタの笑みが固まった。 ノエルの指が鞄の金具を強く握る。 失敗した。 セレスティアはすぐに気づいた。 マルタへ向けた棘が、ノエルにも刺さった。 「今のは、言い方が悪かったわ」 セレスティアはノエルへ言った。 「あなたの居場所を軽く扱うつもりはありませんでした」 ノエルは顔を上げる。 「怒っていません」 「怒っていいのよ」 「怒ると、面倒くさい子になります」 マルタが小さく息を呑んだ。 セレスティアは彼女を見なかった。 見れば、責める言葉が出る。 それは今ではない。 「面倒くさい子でも、お腹は空きます」 「はい?」 「怒っても、泣いても、面倒くさくても、夕食は食べます。そこは変わりません」 ノエルは意味が分からないという顔をした。 「怒ったら、ご飯がなくなるの?」 「なくなりません」 「本当に?」 「少なくとも、私の前では」 「セレスティアさまがいないところでは?」 子供は鋭い。 逃げ道を残さない質問をする。 「そこは、これから確かめます」 「確かめる?」 「ええ。あなたが食事を抜かれていないか。寒い部屋で眠らされていないか。痛い思いをしていないか。そういうことは、大人が確かめるべきです」 マルタが静かに言った。 「まるで、私どもがノエル様を虐げていたようなお言葉です」 ようやく出た。 セレスティアは窓の外へ視線を向けた。 公爵邸へ続く大通りには、葬儀帰りの馬車がいくつも並んでいる。窓の向こうに、こちらを覗く顔がちらほら見えた。 「虐げていたと決めつけたつもりはありません」 「では、疑っていらっしゃる」 「疑っています」 マルタは口を閉じた。 ノエルが不安そうに二人を見比べる。 またやってしまった。 しかし、今度は取り消さなかった。 「乳母殿」 セレスティアは言った。 「あなたを信用するために、まず疑わせてください」 「失礼ではございませんか」 「失礼です。ですが、五歳の子供の生活を預かる相手を、初対面で信用するほうが私は怖い」 「奥様は私を信頼してくださいました」 「亡くなった方の信頼を、今ここで証明することはできません」 マルタの目が、ほんの一瞬だけ冷たくなった。 「お噂通りの方なのですね」 「どの噂でしょう」 「人の心を測れない、冷たい方だと」 ノエルが小さく身じろぎした。 セレスティアは苦笑しそうになった。 今日だけで、何度目だろう。 冷たい。 心がない。 泣かない。 まるで、葬儀とは死者を悼む場ではなく、生者が望み通りに悲しんでいるかを採点される場らしい。 「その噂が本当なら、ノエルにとっては都合がよいかもしれません」 「どういう意味でございますか」 「冷たい人間は、泣き落としに弱くありません。可哀想だからという理由だけで、判断を誤ることも少ない」 「子供には温かさが必要です」 「温かいだけの部屋では、腐るものもあります」 マルタの顔が強張る。 さすがに言いすぎた。 でも、謝らなかった。 セレスティアは自分でも面倒な女だと思う。 言葉が刃物になっていると分かっていながら、引っ込められないときがある。 そして、あとでひとりになってから、その刃を自分の胸に向ける。 馬車が大きな門をくぐった。 ヴァルクール公爵家本邸。 王都でも屈指の大邸宅である。 広大な敷地の中に、灰色の石造りの屋敷がそびえていた。夕暮れの空を背負ったその姿は、城というより、よく磨かれた墓標のように見えた。 美しい。 だが、住みたいかと聞かれれば迷う。 ノエルは窓へ顔を向けた。 大きな門。 広い庭。 整えられた並木。 それらを見ても、子供らしく目を輝かせることはなかった。 新しい居場所を喜ぶより先に、ここで何をしてはいけないかを探している顔だった。 馬車が玄関前で停まる。 扉が開き、リュシアンが先に降りて待っていた。 彼は別の馬車で、葬儀関係の手配を済ませて戻ってきたらしい。 「遅かったな」 「道が混んでいました」 セレスティアが降りると、リュシアンはノエルへ手を伸ばした。 「降りられるか」 「はい」 ノエルは手を借りずに降りようとした。 だが、鞄を抱えたせいで足元が危ない。 リュシアンが咄嗟にその体を支えた。 「鞄を貸しなさい」 「大丈夫です」 「落ちる」 「落としません」 「貸せ」 「嫌です」 初めて、はっきりした拒絶だった。 リュシアンの手が止まる。 ノエル自身も、自分が強く言いすぎたことに気づいたらしい。顔が白くなり、慌てて鞄を差し出した。 「ごめんなさい。どうぞ」 その素早さが痛々しかった。 リュシアンは差し出された鞄を受け取らなかった。 「嫌なら、持っていていい」 「でも」 「持っていたいのだろう」 ノエルは小さく頷いた。 「なら、持っていなさい」 「怒らないの?」 「怒っていない」 「顔が怖いです」 リュシアンは固まった。 玄関前に並んでいた使用人たちが、一斉に視線を伏せる。 笑った者はいない。 だが、空気が少しだけ揺れた。 「これは元からだ」 リュシアンが言う。 ノエルは真剣に彼の顔を見つめた。 「かわいそう」 「誰が」 「伯父さまが」 セレスティアは思わず横を向いた。 笑ってはいけない。 葬儀の日である。 しかも、つい先ほどまで深刻な話をしていた。 それでも、リュシアンの表情があまりにも難しかった。 「セレスティア」 「笑っておりません」 「今、肩が動いた」 「寒かったのです」 「今日は暖かい」 「心が冷たいので」 「自分で言うな」 ノエルが目を丸くしている。 マルタは不快そうだった。 使用人たちは、いよいよ顔を上げられなくなっている。 リュシアンは咳払いをした。 「中へ」 玄関広間に入ると、空気が変わった。 磨かれた大理石の床。 高い天井。 壁には歴代公爵の肖像画。 どれも重々しく、立派で、子供の足音を吸い込んでしまいそうだった。 ノエルは鞄を抱え直す。 セレスティアはそれを見た。 リュシアンも見た。 だが、今度は何も言わなかった。 「ノエルの部屋は」 セレスティアが尋ねる。 「東棟の客室を用意した」 リュシアンが答える。 「客室?」 「急だったのでな。子供部屋として整えるには時間が足りない」 「東棟は、どなたの部屋に近いのですか」 「空き部屋が多い」 「つまり、誰の部屋からも遠い」 「静かだ」 「五歳の子供に必要なのは、静けさより人の気配では?」 リュシアンの眉間に皺が寄る。 「乳母も隣室に置く」 「乳母殿にすべて任せるおつもりですか」 「任せるとは言っていない」 「では、夜中にノエルが起きたとき、閣下は東棟まで走っていらっしゃる?」 「必要なら」 「その必要に気づければ、ですね」 リュシアンは黙った。 マルタが控えめに頭を下げる。 「恐れながら、ノエル様は夜泣きなどなさいません。静かにお休みになります」 「乳母殿」 セレスティアは彼女を見た。 「夜中に泣かない子供と、夜中に泣けない子供は違います」 「奥様のご教育が行き届いているのです」 「母親の葬儀の日にも泣けない教育なら、行き届きすぎています」 「セレスティア」 リュシアンの声が低くなる。 今度は本当に怒っている。 「言葉を選べ」 「選んでおります」 「それでか」 「選ばなければ、もっと酷いことを言っています」 「自慢にならない」 「承知しております」 ノエルが二人の間で、小さく息を吐いた。 「お部屋は、どこでも大丈夫です」 まただ。 大丈夫。 どこでも。 何でも。 セレスティアはその言葉が、だんだん嫌いになっていくのを感じた。 「ノエル」 「はい」 「本当にどこでもいいの?」 「はい」 「広すぎる部屋は怖くない?」 「怖くありません」 「暗い廊下は?」 「平気です」 「知らない人ばかりでも?」 「大丈夫です」 「お母様と最後に暮らしていた部屋には、窓がいくつありましたか」 唐突な質問に、ノエルは瞬きをした。 「二つ」 「そのうち一つは閉めにくかった?」 「はい」 「夜になると、お母様が何度も確かめていた?」 「……はい」 「あなたは、窓が見える場所で眠りたい? それとも見えない場所がいい?」 ノエルは黙った。 初めて、答えを探している顔をした。 大人が望む正解ではなく、自分の中にある答えを探している。 「見えないところがいい」 小さな声だった。 「でも、朝になったら、開いているか見たい」 「分かったわ」 セレスティアはリュシアンへ向き直る。 「部屋を見せてください」 「今からか」 「今からです。夜になってからでは遅いでしょう」 「君は客人だ」 「七日間の共同後見候補です」 「候補だろう」 「候補だからこそ、見ます」 リュシアンは苛立たしげに息を吐いた。 けれど反論はしなかった。 使用人へ目配せする。 年配の家令が一歩進み出た。 「ご案内いたします」 東棟の客室は、確かに美しかった。 淡い緑の壁紙。 天蓋付きの寝台。 柔らかな絨毯。 窓は庭に面していて、外からの見通しも悪くない。 大人の客を泊めるには申し分ない部屋だった。 だが、子供が眠るには広すぎた。 寝台の上に座れば、天井が遠い。 夜になれば、家具の影も大きく伸びるだろう。 ノエルは部屋へ入るなり、窓の数を確かめた。 二つ。 そのうち一つに近づき、鍵に触れようとして、すぐに手を引っ込めた。 「触ってもいいわ」 セレスティアが言う。 「壊したら困ります」 「壊れたら直せばいい」 「高そうです」 「公爵閣下が払います」 リュシアンがこちらを見る。 「なぜ私を見る」 「この屋敷の窓でしょう」 「当然だ」 「なら、所有者が直します」 ノエルはおずおずと鍵に触れた。 何度か動かす。 硬い。 子供の力では閉めにくいだろう。 リュシアンが家令を見る。 「今夜中に直せ」 「かしこまりました」 「今夜中ではなく、今すぐお願いします」 セレスティアが言う。 リュシアンの眉が動く。 「同じだ」 「違います。夜になってから職人が部屋へ出入りすれば、この子は落ち着きません」 家令がセレスティアへ一礼した。 「すぐに手配いたします」 リュシアンが複雑な顔をした。 自分の屋敷の使用人が、セレスティアの指示にも素直に従ったのが面白くないらしい。 子供ではないのだから顔に出さなければよいのに、と思ったが、たぶん自分も似たようなものだ。 「寝台の位置を変えましょう」 セレスティアは部屋を見回した。 「窓が直接見えない角度へ。けれど、起き上がれば確認できるように」 「そんな細かいことまで必要か」 リュシアンが言う。 ノエルがすぐに口を開いた。 「大丈夫です。このままで――」 「必要です」 セレスティアはノエルの言葉にかぶせるように言った。 少女が驚いてこちらを見る。 「あなたが我慢できるかどうかではなく、眠りやすいかどうかの話です」 「わがままではありませんか」 「違います」 「でも、お部屋を変えるのは大変です」 「大変なのは、大人の仕事です」 ノエルは黙った。 その目が少し潤んで見えた。 泣くのかと思った。 だが、泣かなかった。 代わりに、鞄を抱きしめる。 「その鞄には、何が入っているの?」 セレスティアが尋ねると、マルタが一歩前へ出た。 「私物でございます。着替えと、奥様の形見を少々」 「確認しても?」 「必要ございません。私が支度いたしましたので」 「では、なおさら確認します」 マルタの顔色が変わった。 「エルフォード様。子供にも、見られたくないものはございます」 「ええ。だから、ノエルに聞いています」 セレスティアはしゃがんだ。 「ノエル。鞄を開けてもいい?」 少女はすぐに答えなかった。 指で金具をなぞる。 「見たら、捨てますか」 「捨ててほしくないものが入っているの?」 頷きはしない。 だが、沈黙が答えだった。 「勝手には捨てません」 「絶対?」 「危ないものでなければ」 「危ないものはありません」 「それなら、あなたと一緒に確認します。嫌なら、今日はやめてもいい」 ノエルはマルタを見た。 マルタは微笑んでいる。 優しそうな顔だった。 だが、その微笑みを見た瞬間、ノエルは鞄をさらに強く抱えた。 「今、見ます」 ノエルは床に膝をつき、鞄を置いた。 金具を外す手が震えている。 リュシアンが手伝おうとしたが、セレスティアは目で止めた。 これは、ノエル自身に開けさせたほうがいい。 鞄の中には、子供用の着替えが二組。 薄い寝間着。 古びた櫛。 小さな布兎。 白いリボン。 そして、硬くなったパンが布に包まれて入っていた。 リュシアンの顔が変わる。 「これは何だ」 ノエルの肩が跳ねた。 「ごめんなさい」 「なぜ謝る」 「盗りました」 「どこから」 「朝の食事のところから」 マルタが素早く言った。 「ノエル様、それは私が後ほど処分するつもりで――」 「マルタ」 リュシアンの声は静かだった。 静かすぎて、逆に怖かった。 「黙れ」 マルタが息を呑む。 リュシアンはノエルへ向き直る。 「なぜパンを入れた」 「お腹が空いたときに」 「食事は出す」 「出ない日もあります」 部屋の空気が凍った。 セレスティアはマルタを見た。 マルタの顔は白い。 しかし、その白さは恐怖だけではなかった。 怒りもある。 恥をかかされた怒り。 「ノエル様」 マルタが低く言った。 「そのような言い方をしては、皆様が誤解なさいます」 「誤解なのか」 リュシアンが問う。 「はい。食事を出さないなど、とんでもございません。ただ、ノエル様は食が細く、召し上がらないことがありました。奥様も、無理に食べさせるなと」 「食べなかったものを、あとで食べようと隠したのではないのか」 セレスティアが言う。 マルタは唇を引き結んだ。 「子供のすることです」 「子供がするには理由があります」 「何でも理由をつければ、しつけが成り立ちません」 「しつけと、空腹を怖がらせることは違います」 「私はノエル様をお育てしてきました」 「では、なぜこの子はパンを隠すのですか」 マルタが黙った。 ノエルが震え始めている。 自分のせいで大人が争っていると思っている。 まただ。 セレスティアは深く息を吸った。 「ノエル」 「はい」 「このパンは、捨てません」 「でも、硬いです」 「硬いパンは、スープに入れれば食べられます」 「食べるの?」 「あなたが食べたいなら」 ノエルは目を丸くした。 「怒らない?」 「怒るとすれば、パンを隠さなければならないと思わせた大人にです」 リュシアンがマルタを見た。 マルタは膝を折った。 「申し訳ございません。私の監督不行き届きです」 あまりにも整った謝罪だった。 心がこもっているかどうかより、これ以上責められない形に整えられている。 こういう謝り方をする人間は、なかなか崩れない。 セレスティアは、乳母への警戒を一段上げた。 「今日は、ノエルと私で荷物を確認します」 「エルフォード様が?」 「ええ」 「ですが、お疲れでしょう。葬儀の後でございますし」 「あなたもお疲れでしょう。休んでください」 マルタは一瞬、返事をしなかった。 リュシアンが言う。 「聞こえなかったか。下がれ」 「……かしこまりました」 マルタは一礼し、部屋を出ていく。 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。 ノエルは鞄の前で固まっていた。 「マルタは、怒る?」 「今は怒らせない」 リュシアンが即答した。 ノエルは不安そうに言う。 「伯父さまは帰ったあとも、ここにいますか」 「ここは私の屋敷だ」 「ずっと?」 「……なるべく」 なるべく。 正直だが、子供には不安な言葉だった。 セレスティアはリュシアンを見た。 「閣下」 「何だ」 「今夜は、この部屋の近くにいてください」 「当然だ」 「当然だと思うなら、最初から東棟の奥の客室を選ばないでください」 「先ほどから君は、いちいち一言多い」 「閣下は、一言足りません」 「君と足して割ればちょうどいいとでも?」 「割られるのは御免です」 「私もだ」 ノエルがじっと二人を見ている。 その表情は、さっきより少しだけ緊張がほどけていた。 喧嘩に見えるが、自分をどちらが引き取るかで揉めているわけではない。 そう分かり始めたのかもしれない。 鞄の中身を並べていく。 布兎は耳が片方ほつれていた。 リュシアンがそれを見て言う。 「新しいものを買う」 「いりません」 ノエルがすぐに言った。 また慌てて付け加える。 「ごめんなさい」 「謝るな」 リュシアンは少し考え、 「……では、直させる」 と言った。 「直してもいいか」 ノエルは布兎を撫でた。 「お母さまが、昔、縫ってくれました」 リュシアンの顔が僅かに歪む。 「妹が?」 「はい。あまり上手じゃないけど、わたしに似ているって」 確かに、耳の位置も目の高さも少しずれている。 ミレイユは刺繍が苦手だった。 十二歳の頃、淑女教育の時間に針で指を刺し、セレスティアの布に血をつけて大騒ぎした。 『ティア、お願い。代わりに縫って。先生に叱られるわ』 『自分でなさい』 『親友でしょう?』 『親友は替え玉ではありません』 『冷たい!』 あの声を思い出して、胸が痛くなる。 冷たい。 昔から、そう言われていた。 ミレイユは笑いながら言っていた。 その笑い方まで、思い出せてしまう。 「セレスティア?」 リュシアンに呼ばれ、我に返った。 「何でもありません」 「顔色が悪い」 「葬儀のあとですので」 「無理をするな」 「閣下に心配されると、明日は雪が降りそうです」 「君は心配されても嫌味を返さなければ気が済まないのか」 「慣れておりませんので」 「何に」 「心配されることに」 言ってから、しまったと思った。 リュシアンが黙る。 ノエルがこちらを見上げる。 余計なことを言った。 こういう小さな本音は、場を難しくする。 セレスティアは咳払いをして、鞄の底へ手を伸ばした。 そのとき、指先に硬いものが触れた。 鞄の底板。 いや、違う。 布の下に、何かが縫い込まれている。 「ノエル」 「はい」 「この鞄は、誰が用意したの?」 「お母さまです」 「いつ?」 「分かりません。でも、お母さまが、何かあったらこれを持って逃げなさいって」 逃げなさい。 リュシアンの表情が変わった。 「誰から逃げると」 「お父さまのお友達」 「名前は?」 「知らない」 また、その男だ。 セレスティアは鞄の底を調べた。 縫い目が一部だけ粗い。 ミレイユの手だ。 下手な針目。 昔と変わらない。 「鋏を」 リュシアンがすぐに使用人を呼ぼうとする。 「待って」 セレスティアは止めた。 「ノエル。この縫い目をほどいてもいい?」 「お母さまが縫ったところ?」 「ええ」 「ほどいたら、戻せますか」 「戻せます」 「セレスティアさまが?」 「私は縫い物が苦手ではありません」 「お母さまは下手でした」 「知っています」 ノエルが少しだけ目を丸くする。 「知っているの?」 「昔から下手でした」 「お母さま、自分は上手だって言っていました」 「嘘です」 「やっぱり」 ノエルが小さく笑った。 その笑顔は、ミレイユと似ていなかった。 ノエル自身のものだった。 セレスティアは胸の奥が少しだけ緩むのを感じながら、縫い目をほどいた。 底板の下から出てきたのは、薄い油紙に包まれた小さな鍵と、封筒だった。 封筒は古い。 表には、見慣れた字で名前が書かれている。 セレスティアへ。 ただ、それだけ。 リュシアンが息を止めた。 ノエルは首を傾げる。 「お母さまの字?」 「ええ」 セレスティアの指が震えた。 六年間、開けなかった手紙。 捨てた手紙。 燃やした手紙。 返した手紙。 その一つが、今度は死んだ親友の娘の鞄から出てきた。 逃げられない形で。 「読むのか」 リュシアンが聞く。 声は責めていなかった。 ただ、少し掠れていた。 セレスティアは封筒を見つめる。 読みたくない。 読みたい。 聞きたくない。 知りたい。 許したくない。 許す理由が欲しい。 いくつもの感情が、胸の中で押し合っていた。 「今日は読みません」 セレスティアは答えた。 リュシアンの眉が動く。 「また逃げるのか」 刺さった。 だが、今度は顔を上げた。 「ええ。今夜は逃げます」 「セレスティア」 「ただし、捨てません」 封筒を両手で持つ。 「明日、読みます。ノエルが朝食を食べて、窓の鍵が直って、この部屋で眠れたか確かめたあとで」 「順番が違うだろう」 「違いません」 「これは妹が隠した手紙だ。事件に関わるかもしれない」 「この子が今夜眠れるかどうかも、十分に事件です」 リュシアンは言い返そうとして、やめた。 ノエルが布兎を抱きしめている。 その目が眠そうに揺れていた。 葬儀。 遺言状。 馬車。 新しい屋敷。 鞄の中身。 五歳の体には、もう重すぎる。 「分かった」 リュシアンは低く言った。 「明日だ」 「はい」 「だが、手紙は私の金庫へ」 「嫌です」 「なぜだ」 「あなたは今夜読みそうだからです」 「読まない」 「本当に?」 「……読まない」 一瞬の間があった。 セレスティアは目を細める。 「今、迷いましたね」 「迷っていない」 「嘘が下手です」 「君ほどではない」 「私は嘘をつきません」 「つく。平気だと言うときは、だいたい嘘だ」 今度はセレスティアが黙った。 妙なところを見ている。 腹立たしい。 それ以上に、少しだけ怖かった。 「では、手紙はノエルの鞄へ戻します」 「駄目だ」 「なぜ」 「危険かもしれない」 「では、封筒だけ私が持ち、鍵は閣下が保管する。それでいかがです」 「逆ではないのか」 「私が鍵を持つと、閣下は私が勝手に開けると疑うでしょう」 「君も私を疑っている」 「ええ。お互い様です」 リュシアンはしばらく黙り、それから手を差し出した。 「鍵を」 セレスティアは小さな鍵を渡した。 その指が一瞬触れる。 互いにすぐ手を引いた。 まるで火傷でもしたようだった。 ノエルが見ている。 「二人は、本当に仲が悪いの?」 「悪いです」 「悪い」 また重なった。 ノエルは布兎に顔を埋めた。 肩が震えている。 泣いているのかと思った。 違った。 笑っていた。 音を立てないように、必死で笑っている。 リュシアンは困惑し、セレスティアもどうしていいか分からなかった。 それでも、止めなかった。 笑いたいなら笑えばいい。 葬儀の日でも。 母親を亡くした日でも。 大人が言い争う部屋の中でも。 子供が笑ってはいけない理由など、本当はどこにもない。 やがて、ノエルは眠気に勝てなくなった。 布兎を抱えたまま、寝台へ横になる。 天蓋の影が怖いかと聞くと、少し考えてから「少しだけ」と答えた。 リュシアンが天蓋を外させようとしたが、セレスティアが止めた。 「今夜は、布だけ開けておきましょう。急に全部変えると、それはそれで落ち着きません」 「難しいな」 「子供は家具ではありませんから」 「また一言多い」 「癖です」 「直せ」 「検討します」 「絶対にしない言い方だな」 そんなやり取りをしているうちに、ノエルは目を閉じた。 眠ったかと思うと、すぐに薄く目を開ける。 「パン」 小さな声だった。 「ここにあるわ」 セレスティアは硬いパンを布に包み直し、寝台横の小さな台に置いた。 「捨てない?」 「捨てない」 「朝もある?」 「あります」 「お腹が空いても、怒らない?」 「怒りません」 ノエルは安心したのか、布兎を抱く手の力を緩めた。 今度こそ、眠った。 部屋を出ると、廊下には静けさが広がっていた。 リュシアンは扉の前に立ったまま、しばらく動かなかった。 「客室を選んだのは、失敗だった」 ぽつりと言う。 素直な反省が出てくると思っていなかったので、セレスティアは返事に困った。 「そうですね」 「そこは慰めるところではないのか」 「お望みでしたか」 「望んではいない」 「では、よかった」 リュシアンが疲れた顔をする。 葬儀の日の終わりに、彼もまた疲れ切っている。 妹を失い、姪を引き取り、六年前から嫌っている女と共同後見を迫られた。 同情する余地はある。 ただ、それを口にするほどセレスティアは優しくなかった。 「乳母をどう見る」 リュシアンが尋ねた。 「信用しません」 「即答だな」 「閣下は?」 「同じだ」 「では、珍しく意見が合いました」 「喜ばしいことではない」 「ええ」 二人は廊下を歩き出した。 窓の外はすでに暗い。 屋敷の庭には灯りが点り、夜の花が白く浮かんでいる。 白い花ばかりだ。 ミレイユなら文句を言っただろう。 「妹は」 リュシアンが不意に言った。 「赤い薔薇が好きだった」 セレスティアは足を止めた。 「知っています」 「棺に白い花を飾ったのは、私ではない」 「そうですか」 「叔母が手配した」 「言い訳ですか」 「違う」 「では、なぜ私に?」 リュシアンはしばらく黙った。 「私が手配していても、白を選んだかもしれない」 思いがけない言葉だった。 「妹が何を好きだったか、忘れていた」 セレスティアは彼を見た。 冷徹公爵。 氷壁。 王宮では、そう呼ばれている男。 その男が、廊下の薄暗がりで、自分の失敗を呟いている。 「六年は長いです」 「言い訳だな」 「はい」 リュシアンは苦笑しなかった。 ただ、目を伏せた。 「君は覚えていたのか」 「ええ」 「なのに、泣かなかった」 セレスティアは息を吸った。 責められているのかと思った。 けれどリュシアンの声には、先ほどほどの棘がない。 ただ分からない、という響きだった。 「覚えていることと、泣けることは違います」 「そうか」 「閣下は、泣きたいのですか」 「分からない」 「大人なのに?」 ノエルの言葉を真似ると、リュシアンはほんの僅かに眉を上げた。 「意地が悪いな」 「知っています」 「妹よりも?」 「死んだ妹君と比べるのは、ずるいのでは?」 「確かに」 初めて、リュシアンの口元が微かに動いた。 笑みと呼ぶには薄い。 けれど、氷に細いひびが入るような変化だった。 その瞬間、セレスティアは嫌なことに気づいた。 この男を完全に嫌い続けるのは、少し難しいかもしれない。 それは非常に困る。 嫌いな相手は、嫌いなままでいてくれなければ困るのだ。 そうでなければ、自分が六年間抱えてきた怒りの置き場所がなくなってしまう。 セレスティアは手にした封筒を見下ろした。 ミレイユの字。 セレスティアへ。 明日、これを読む。 読めば、また何かが変わる。 変わりたくない。 でも、もう変わらずにいることもできない。 「明日の朝」 リュシアンが言った。 「ノエルの朝食後に読むのだったな」 「はい」 「逃げるなよ」 セレスティアは封筒を胸元へ引き寄せた。 「閣下こそ」 「私は逃げない」 「妹君からは逃げたでしょう」 言ってすぐ、後悔した。 リュシアンの顔が硬くなる。 今度は、明らかに言いすぎた。 セレスティアは唇を開いた。 謝るべきだ。 そう思った。 だが、言葉が出てくる前に、リュシアンが静かに答えた。 「ああ」 短い肯定だった。 それだけで、セレスティアのほうが傷ついた。 「だから、明日は逃げない」 リュシアンはそう言い残し、廊下の向こうへ歩いていった。 セレスティアは一人、封筒を握りしめたまま立ち尽くす。 死んだ親友より、生きている人間のほうが面倒だ。 怒れば怒り返す。 傷つければ傷つく。 そして時々、こちらが用意した悪役の場所から、勝手に降りてしまう。 セレスティアは目を閉じた。 明日読む。 そう決めた。 決めたはずなのに。 自室として与えられた客間へ戻ってからも、封筒を机の引き出しに入れることができなかった。 蝋燭の火が揺れている。 窓の外から、夜風がかすかに音を立てる。 セレスティアは椅子に座り、封筒を見つめた。 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。 「あなたは、どこまで私を知っていたの、ミレイユ」 封筒は答えない。 死者はいつも黙っている。 その沈黙が、生者を一番苦しめるのだと、セレスティアはその夜初めて知った。白い紙は、机の端に置かれたままだった。 何も書かれていない。 ただの白い紙。 けれど、ノエルはそれを「嘘の白ではありません」と言った。 まだ書かない白。 空いている白。 思い出話のための、まだ開けていない場所。 セレスティアは、その紙を時々見てしまう。 アデライードも同じだった。 母は部屋の入口近くに立ったまま、少しだけ唇を結んでいる。 いつもの優雅な微笑みはない。 失敗した大人の顔をしていた。 それが、少し意外だった。 母はいつも整っている。 失言さえも、三呼吸後には上品に畳んでしまう人だ。 けれど今は、畳まない。 自分が急いだことを、急いだまま認めている。「ノエル嬢」 アデライードは静かに言った。「先ほどのことを、改めて謝ります」 ノエルは布兎を抱えたまま、少し肩を固くした。「謝られると、返事を考えます」「そうですね。では、返事はいりません」「返事がいらない謝罪ですか」「はい。私が私の急ぎすぎを認めるための謝罪です。あなたに、すぐ許していただくためではありません」 ノエルは少し考えた。「謝罪文は、読まなくても謝罪文です」「ええ」「謝罪の言葉も、返事しなくても謝罪ですか」「そうです」「では、置きます」「はい」 アデライードは小さく頷いた。「置いてください」 部屋には、午後の光が入っていた。 庭側の窓から入る光はやわらかく、机の上の紙
ノエルのために用意された部屋は、静かだった。 静かすぎて寂しいのではなく、余計なものが置かれていない静けさだった。 淡い色のカーテン。 低い寝台。 窓辺の椅子。 小さな机。 机の上の紙とペン。 黄色い花。 犬のパン殿の水皿。 それから、犬のパン殿本人。 犬のパン殿は、到着してすぐ水を飲み、札を少し濡らしかけ、ノエルに直され、そのあと敷物の上で丸くなった。 旅慣れていないはずなのに、誰よりも早く休む場所を決めている。 ノエルは、それを少し羨ましそうに見ていた。 「犬のパン殿は、すぐ休めます」 「そうですね」 セレスティアは答えた。 「知らない部屋なのに」 「水皿があったからかもしれません」 「水皿があると、休めますか」 「犬のパン殿には、そうなのかもしれません」 「わたしの水皿は何ですか」 ノエルは、真剣に聞いた。 セレスティアは少し考えた。 「布兎かしら」 「布兎」 「それから、旅の紙入れ」 「はい」 「黄色いリボンも」 ノエルは、自分の髪の黄色いリボンに触れた。 低い位置で結ばれている旅の紐。 馬車の中で何度か揺れ、少し曲がったが、ほどけてはいない。 「水皿が多いです」 「多いほうが安心する時もあります」 「多すぎると、戻る馬車が重くなります」 「水皿は比喩ですから」 「比喩は、少し難しいです」 扉の近くに立っていたリュシアンが、低く言った。 「私も苦手だ」 ノエルはすぐ彼を見た。 「伯父さまは、練習中です」 「
エルフォード領の道は、セレスティアの記憶より少し狭く見えた。 いや、道が狭くなったのではない。 自分が大人になったのだ。 子供の頃は、この並木道が果てしなく長く見えた。 馬車の窓から身を乗り出しそうになって、母に「淑女は枝と競走しません」と叱られたことがある。 それでも、セレスティアは馬車の中でこっそり並木の数を数えた。 一つ、二つ、三つ。 あの頃の自分は、帰ってきたことを数で確かめていた。 今、隣にはノエルがいる。 膝の上に布兎。 髪には黄色いリボン。 手元には旅の紙入れ。 足元には犬のパン殿。 そして向かいにはリュシアンが座っている。 彼は窓の外を見ていた。 確認したそうな顔をしている。 馬車の周囲、護衛の距離、道幅、門の位置、屋敷の玄関、たぶん全部見ている。 けれど、口には出さない。 ノエルに「地図は少し多いです」と言われたことが、効いているらしい。 ノエルもそれに気づいていた。「伯父さま」「何だ」「今、いっぱい見ています」「少しだ」「いっぱいの少しです」「……そうか」「でも、言っていません」「言わない」「十割です」「助かる」 リュシアンは短く返した。 その顔は相変わらず怖い。 だが、少しだけ不器用に我慢している顔でもある。 セレスティアは、その横顔を見てから窓の外へ目を戻した。 屋敷が見えてきた。 白
公爵邸が見えなくなってから、ノエルはしばらく黙っていた。 馬車の窓には、見慣れた王都の石壁が流れていく。 朝の市場へ向かう荷車。 パン屋の煙突から上がる薄い煙。 まだ眠そうな顔の青年が水桶を運び、店先の老婆が敷布を叩いている。 どれも、ノエルが何度か見たことのある景色だった。 けれど、今日のそれは少し違う。 ただ外へ出るのではない。 帰るために出ている。 馬車は、戻る馬車でもある。 それでも、進む向きは前だった。 ノエルは旅の紙入れに触れた。 生成りの封筒。 青い紐。 中には三枚。『帰る場所は、選んで増えていい』『うまくできなければ、帰っていい』『戻る馬車は、正式です』 昨日の夜、箱の前で選んだ紙。 箱は留守番。 黄色い花と一緒に、公爵邸で待っている。「まだ、ありますか」 ノエルが小さく聞いた。 セレスティアは、ノエルが何を指しているのかすぐ分からなかった。「紙?」「いいえ」「箱?」「いいえ」「公爵邸?」 ノエルは頷いた。「あります」 セレスティアは答えた。「見えません」「見えませんね」「角を曲がったからです」「はい」「見えなくなったら、少し変です」「胸のどこかが?」「はい。公爵邸が消えたみたいです」 リュシアンが低く言った。
出発の朝、ノエルはいつもより早く目を覚ました。 まだ空は白み始めたばかりで、窓の外の庭も薄い灰色をしている。 鳥の声も少ない。 屋敷全体が眠っているようで、それでいて、どこか起きている。 旅の日の朝は、変な静けさがある。 ノエルは寝台の上でしばらく動かなかった。 布兎を胸に抱き、目だけを動かして部屋を見る。 机の上。 小さな鞄。 その横に置かれた旅の紙入れ。 布兎の青いリボン。 昨日、小さな布袋に入れた黄色いリボン。 箱は部屋の端にある。 青い紐で閉じられ、横には黄色い花が一輪置かれている。 箱は留守番。 三枚の紙は旅。 何度も確認した。 それでも、朝になると少し違って見えた。 夜に決めたことは、朝になると本当にできるのか試される。 ノエルは布兎を抱えたまま、箱へ近づいた。 床に膝をつき、箱の横の黄色い花を見る。 花はまだ元気だった。 少しだけ首を傾げているが、しおれてはいない。「おはようございます」 ノエルは小さく言った。 箱は答えない。 当然だ。 けれど、その答えない感じが、今日は少し安心でもあった。 箱が急かさない。 箱が泣かない。 箱が「置いていくのですか」と言わない。 ただ、そこにある。「行ってきますは、まだ早いです」 ノエルは言った。「朝ごはんのあとです」 それから、布袋を手に取った。 中から黄色い
出発の朝ではない。 まだ、出発前日の夜でもない。 ただ、翌朝が来れば旅になる、という妙な時間だった。 屋敷の中は、どこか落ち着かない。 廊下の足音がいつもより少し早い。 侍女たちは声を低くしているが、その低さ自体が忙しさを隠せていない。 家令は平然としている。 平然としているが、手にしている帳面の角度が、いつもより少し鋭い。 御者トマは馬の様子を見に行き、庭師はなぜか玄関まわりの枝を整えている。 犬のパンは、何も分かっていない顔で屋敷中を歩き回り、そのたびに誰かから、「犬のパン殿、そちらは厨房ではありません」 と呼ばれている。 犬のパン殿。 この呼び名は、思った以上に屋敷へ広がってしまった。 セレスティアは、廊下の向こうから聞こえた「犬のパン殿が敷物をくわえて逃走中です」という侍女の声に、思わず目を閉じた。 明日、エルフォード領へ向かう。 戻る馬車つき一泊。 その言葉だけ聞けば、慎重で安心な旅のはずなのに、実際の屋敷は小さな遠征前のようになっていた。 そして、その中心にいるはずのノエルは、静かだった。 静かすぎた。 小卓の前に座り、箱を前にしている。 箱は、いつもの布袋から出されていた。 青い紐。 角の少し丸い木箱。 ノエルの紙がたくさん入っている箱。 昨日は「箱は留守番です」と小卓に書いた。 その紙はまだ小卓にある。 だが、今朝のノエルの顔を見る限り、その言葉はまだ完全には乾いていなかった。 セレスティアは、小卓の向かいに座った。「おはよう、ノエル」







